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第二校歌

第二校歌 西田正一 詞 山田耕筰 曲 みんなみの島蓬莱に 武陵桃源睡生の 夢そも幾年つ々き來し 東天今や茜して 新しき日の明けんとす 萬象とみに生氣あり 赤道圈下の日をあびて 花は眞紅にもえて咲き 葉はの色を織る 若人の血は感激と 意氣のマーチを奏でつつ 人生ここに光輝あり 高くかゝげし椰子の葉の 聖旆のもとしたひ来て 盟かたむる六百名 雲にそびゆる新高の 山より高き理想追ひ 切磋琢磨の功を積む 朝にのぞむ七星山 希望の色にはゆるかな タさすらふ淡水畔 思念は水と淸きかな この聖域を道場に 智德みがくや七春秋 文化を誇りし西歐に 今や榮華の日は落ちて わが東洋に淸新の 文化のあしたあけんとす そなへ使命は重し孜々として 他日雄飛の準備せん

第一校歌

第一校歌 台北高校校歌第一校歌 大正14年作詞:三沢 糾 作曲:阿保 寛獅子頭山に 獅子頭山に雲みだれ   七星が嶺に霧まよふ 朝な夕なに天かける   理想を胸に秘めつゝも 駒の足掻のたゆみなく  業にいそしむ學びの舎 限りも知らに奥ふかき  文の林に分け入りて 花つむ袂薫ずれば    若き學徒の誇らひに 碧空遠く嘯きて     わがペガサスに鞭あてむ 錬武の場に下り立ちて  たぎる熱汗しぼるとき 鐵の腕に骨鳴りて    男の子の心昂るなり つるぎ収めてかへるとき 北斗の星のかげ清し あゝ純眞の意氣を負ふ  靑春の日はくれやすく 一たび去ってかへらぬを など君起ちて舞はざるや いざ手をとりて歌はなむ 生の歡喜を高らかに

徽章

台北高等学校の徽章は「椰子の葉」か「芭蕉の葉」か。塩月善吉先生の言葉(要旨)を紹介します。(「台北高等学校から」) 「図案を作ったのは、大正十年二月ころだった。私は松山高等学校に創立当時からいたが、台北に創設される高等学校に行く事は、また可成りの興味を抱かされた。 初代校長として開設に努力中だった松村傳氏から大至急、徽章図案を考案して送るようにとの事だった。台湾を知らぬ私だが、頭に浮かんだのは芭蕉の瑞々しい豊満な広い葉と熱帯の碧空にのびのびと立ちのぼる椰子の先端の魅力とだった。 正三角形を基礎として椰子の若葉の先端を当てはめて作ったのが徽章となった次第。椰子の葉は勝利、正義、向上、理想の象徴、正三角形は平等、安定、進展。頂角は真善美、科学芸術宗教、教育道徳体育の偏せざる理想が考えられる。だが、必ずしも私の図案どおりに制作されたとは思わない」

歴代校長

初代校長 松村傳 (1922.4-1925.3) 出身 高知県 第三高等学校 東京帝国大学史學科 略歷 1912 三重県立第一中學校校長 1916 臺灣總督府台北中學校校長 1917兼臺灣總督府商業學校教諭 1922.2台北州立台北第一中學校校長 1922.4兼台北高等学校校長 第二代校長 三澤糾(1925.5-1929.11) 出身 宮崎県 熊本第五高等学校法文学科 東京帝国大学哲学科 クラーク大学心理学科 略歷 1912広島高等師範学校教授 1915和歌山県立海草中学校 1918大阪府立第十一中学校 1925台北高等学校校長 1929京都帝国大学学生科長 第三代校長 下村虎六郎(1929.11-1931.9) 出身略歷 佐賀県 熊本第五高等学校 東京帝国大学英文科 略歷 1923唐津中学校校長 1925台中第一中学校校長 1928台北高等学校教授兼教諭 1929台北高等学校校長 1938《論語物語》出版 1941《次郎物語》出版 第四代校長 谷本清心(1931.9-1941.8) 出身略歷 高知県 東京第一高等学校 東京帝国大学理論物理学科 略歷 1907台灣總督國語學校教授兼中學校教諭 1908臺灣總督府中學校教諭 1911広島高等師範学校教授 1925台北高等学校教授兼教諭 1928.6-1930.8 在外研究 1931台北高等学校校長 第五代校長

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寮の生活

寮の自治生活は、高校生活における重要な要素でした。台北高等学校の「七星寮」は学生たちの自治で成り立つ学寮で、独立性と自主管理制度が採られました。入居した生徒たちは、日本人・台湾人の区別なく共同生活を送りました。 学友会活動もまた、高校生活には欠かせませんでした。台北高校には20余りもの運動部・文化部がありました。これらの部員は校内での活動の他、台湾各地はもちろん、日本内地へも遠征しました。寮祭で仮装をし、七星寮の中庭で高砂踊りをしている様子。

台北高等学校の誕生

1922年、台北高等学校はまず尋常科が設立されました。当初は台北第一中学校(現・建国高級中学)の校舎の一部を借用して開校しました。その3年後、1925年に高等科が設立され、翌年台北市古亭町の校舎(現・台湾師範大学本部キャンパス所在地)に移転しました。 語言課台北高等学校の尋常科は、小・公学校を卒業した台湾人・日本人児童に入学を許可し、4年の修業期間を終えた後、直接高等科に進学できました。一方、高等科は修業期間を3年とし、尋常科から進学して来た生徒の他に、他の中学校の卒業生も入学試験を経て入学することができました。高等科は、文科と理科に分かれ、選択した外国語科目により更に甲類と乙類に分けられました。生徒は、毎週ドイツ語または英語を10時間余り学び、将来の勉学や研究のために、高校時代に語学力の基礎をしっかりと固め上げました。 台北高等学校の入学試験は、「台湾一の難関」と言われていました。当時尋常科に合格できた台湾人児童の平均数は4人にも満たず、高等科でも平均30人に及ばない程でした。正に「難関中の難関」だったと言えます。高等科卒業後は、無試験で台北帝国大学(現・国立台湾大学)に入学が許可されましたが、日本内地の東京帝大、京都帝大に入学した生徒も数多くいました。 台北高校は帝大予科の性質を持っていたため、卒業生のほとんど全員が大学へ進学し、授業は外国語の教育に重点を置き、相当な成果を挙げた。また、優秀な教師陣によって少人数の学生を教育し、さらに学生の大多数が寮生活を送っていたため、自治的な生活の中で仲間と切磋琢磨することで、友情が育まれた。このように優れた学習環境にあった台北高校の学生は、「エリート中のエリート」と呼ぶに値する。1925年より、台北高校は総督府国語学校および医学校に代わって、台湾トップのエリート養成所となり、これらのエリートたちは台湾戦後社会におけるリーダー階層の最も重要な源泉の一つともなった。

「弊衣破帽」の選ばれし者たち

高校生の精神が表れた言動や身なりを指し、西洋紳士のハイカラ(おしゃれhighcollar)の対語である。青春真っ只中の高校生達は、粗野なふるまいを楽しんだ。典型的なファッションは「弊衣破帽」、ぼさぼさに伸びた髪、破れた古い学生服、高校の象徴である二本の白線入り帽子といったスタイルで、帽子は穴があいて髪の毛が見えている。肩に黒いマントをひっかけ、足には幅広の鼻緒がついた高下駄を履き、腰には汚れた手ぬぐいをだらりと提げて、ステッキをついていた。これが高校生の流行ファッションで、このだらしない恰好は、戦国時代の浪人を思わせ、また第二次世界大戦後のヒッピーのようでもある。